イタリアの建国史【国家統一から共和制開始まで】

イタリア(正式名称イタリア共和国)は、ヨーロッパ大陸南部に位置する共和制国家です。古代ローマ時代からの膨大な歴史的遺産と、食・ファッション・音楽・映画・芸術など秀でた文化を持ち、世界的に最も知名度が高い国の1つといえます。しかし意外と知られていないのが、イタリアという統一国家ができてから、まだ160年くらいしか日が経っていないということ。ここがイギリス、フランス、スペインなど早々に国家としての体を成していた他のヨーロッパの大国と決定的に違うところです。ではなぜイタリアは国家としての成立が遅れたのでしょうか。その答えは建国史をみていけばわかります。

 

 

古代ローマの成立(紀元前753年 - 476年)

イタリアの起源は紀元前8世紀半ばに、現在のイタリア半島中部に成立した古代ローマにまで遡ります。ローマは周辺の民族や都市国家を服属させることで勢力を拡大し、前1世紀には地中海世界全域を支配するほどの大帝国に成長しました。古代ローマの統治下で発達した様々な文化が、現在のイタリア文化の基礎となりました。

 

 

古代ローマの崩壊

前27年から200年あまりの間、ローマは繁栄を謳歌していましたが、やがて巨大な国土を維持するのが難しくなり衰退していきます。4世紀半ばには国土が分裂し、5世紀末にはゲルマン民族の侵略を受け崩壊してしまいました。

 

サヴォイア伯国の成立(1003年 - 1416年)

古代ローマ崩壊後のイタリア半島とその周辺地域には、複数の都市国家が分立するようになりました。そのうちの1つに、サヴォイア家の祖ウンベルト・ビアンカマーノが創始し、現フランス南東部サヴォイアを領土としたサヴォイア伯国があります。サヴォイア家は後にイタリア統一運動を主導し、イタリア王国を成立させることになりますので、サヴォイア伯国は古代ローマに次ぐイタリアの祖ともいえます。

 

サヴォイア公国の成立(1416年 - 1720年)

1416年にサヴォイア伯アメデーオ8世が、神聖ローマ皇帝より公爵の位を与えられたことでサヴォイア公国が成立しました。公国は侵略や婚姻によりイタリア北西部にまで領土を拡大し、16世紀にはイタリアのピエモンテに拠点を移しました。もともとはフランスに成立した国家でしたが、イタリア国家としての性格を強めていったのです。

 

 

サルデーニャ王国の成立(1720年 - 1861年)

ロンドン条約の結果、サルデーニャ島がサヴォイア公国の領土に編入。同時にサヴォイア家が、サルデーニャ王の称号を手にしたことでサルデーニャ王国が成立しました。サルデーニャ王国はトリノを首都として、着実に国力を拡大していき、イタリアに影響力を行使していたフランスやオーストリアに圧力を加えるようになりました。

 

 

イタリア王国の成立(1861年 - 1946年)

19世紀中期に、オーストリアやフランス支配からの解放運動が活発になり、サルデーニャ王国はその先頭に立つようになりました。そしてサルデーニャ王国はイタリア諸国を次々と併合していき、1861年についに国家統一を成し遂げたことでイタリア王国が成立しました。

 

 

ファシズムの台頭

イタリア王国は、王家や憲法、政治制度をサルデーニャ王国から受け継ぎました。しかし国民の大部分にあたる貧困層は、統一事業から外されていたため、新しく適用されるルールを受け入れず反体制に傾く人が続出しました。その結果権力で労働者階級を無理矢理従わせる「ファシズム」が台頭するようになったのです。

 

 

イタリア共和国の成立(1946年6月18日 - 現在)

1939年、ドイツのポーランド侵攻に端を発し、第二次世界大戦が勃発します。イタリアも40年6月に枢軸国勢力として参戦しましたが、第一次世界大戦による不況や、それによる軍の近代化の遅れもあり、戦況は悪化する一方でした。その結果、早々に連合軍に降伏することとなり、国内はファシスト勢力と連合国勢力に二分される内乱状態に突入しました。

 

最終的には連合国が勝利し、国内からファシスト勢力を一掃できたものの、国土は荒れ果て、多大な犠牲を払う結果となりました。このことで求心力を失った王家は、王制存続の是非を問う国民投票にかけられることとなり、僅差で廃止派が上回ったことで、1946年6月18日、現在に続くイタリア共和国が成立したのです。